2007年04月20日
追悼図面集な記事を読む
地方に居る自分にとって、米澤さんは、遠い世界の人の
ような感覚でしたが、それでも、機会があるたびに
挨拶程度にお会いしていた気がします。
初めて面と向かって言葉を交わしたのは、10数年前の
コミケ直前集会 当時、開催会場が幕張から諸事象で
晴海に再び戻った関係で、出展サークルの競争倍率が
極端に上がり、私の主催していたサークルが、連続で
4回ほど落選
あまりにも酷いので、Nifの同人誌フォーラムで
喧喧囂囂の討論の後、とにかく直前集会に来いとの
故イワタ氏や他のスタッフの呼びかけに、のこのこと
出掛けていって、あの千人ちょっとスタッフがひしめく
会議場の中で、随分と暴言を吐き散らして来たような
気がします。
壇上の米澤氏は、にこやかに、それを受け止めて
くれたことを思い返すと、ああいうことが出来る場が
ありつづけていたことが、コミケが他のイベントと違っ
て長くありつづけた1つの理由ではなかっただろうかと
感じる次第です。
その後、掲示板で討論をし合っていたメンバーに囲まれ
売り言葉に買い言葉 約10年ほど、運営の手伝いに
東京通いをするハメに・・・orz
まだ、当時は、サークル活動というものは、複数のメンバーで
運営することが多く、結局のところ、イベント支援の人柱を
立てた団体に対して、出展優遇する(これは、現在も変わりが
ないように思いますが)という地域ローカルルールがあり
そのおかけで、なんとか、年2回のサークル出展が再び出来る
ようになった反面、運営の手伝いをするために、同じジャンルの
他のサークルさん達とアフターコミケでの交流というものが出来
なくなって、結局サークル活動自身を止める憂き目に陥ったのは
今から考えたら笑い話なのかもしれません。
その後、いろいろな形で、米澤氏と顔を合わせる機会がありましたが
スタッフ関係者内々で開かれた大田区の最初の会場取り壊し直前での
内輪イベントに参加したとき、友人のカダフィー企画のコミケに関る
あの怪しいパロディ同人誌を直接手渡したところ、非常にお気に入りに
なり、イベントのたびに、こっそり総本部を抜け出して、そこの
ブースにちょこんと座って、評論家・米澤氏のコスプレをしていた
との噂も(周りも心得ていて、居ても知らない振りしていたし)
有明に移ってからは、忙しいため、そんなことも出来なくて、よく
西4の防災本部に、逃げてきて(私はいないぞ)モードを演じていた
のも懐かしい思い出かもしれません。
地元で開かれた日本SF大会では、ゲストで参加され、コミケの場
とは違った楽しそうな一面も見ることがありました。
30周年のお誕生日会のときは、B−マニアックスのブースに
ちょこんと座り、はにかんだ姿を写真を撮らせていただいたのが
私は最後の姿になりました。
この初夏・GWでは、コミティア80にて、追悼パネル
ディスカッションが行われるとの話ですが・・・
興味がある反面、なんか過ぎし日を再び思い返すのも
悲しくもあり・・・
ぼんやりと、束縛から逃れた故人は、それを見て、どんな
風に笑うのだろうと感じる次第です。
【関連情報】
○ブック批評:売れるマンガ、記憶に残るマンガ 米沢嘉博
【毎日・まんたんWeb】
○【訃報】コミックマーケット元代表 米沢氏 急逝
【06/10/02】
○2004年第43回日本SF大会 速報レポート
企画・左側写真のパネラーの1人として参加する故米澤代表(中央)
ような感覚でしたが、それでも、機会があるたびに
挨拶程度にお会いしていた気がします。
初めて面と向かって言葉を交わしたのは、10数年前の
コミケ直前集会 当時、開催会場が幕張から諸事象で
晴海に再び戻った関係で、出展サークルの競争倍率が
極端に上がり、私の主催していたサークルが、連続で
4回ほど落選
あまりにも酷いので、Nifの同人誌フォーラムで
喧喧囂囂の討論の後、とにかく直前集会に来いとの
故イワタ氏や他のスタッフの呼びかけに、のこのこと
出掛けていって、あの千人ちょっとスタッフがひしめく
会議場の中で、随分と暴言を吐き散らして来たような
気がします。
壇上の米澤氏は、にこやかに、それを受け止めて
くれたことを思い返すと、ああいうことが出来る場が
ありつづけていたことが、コミケが他のイベントと違っ
て長くありつづけた1つの理由ではなかっただろうかと
感じる次第です。
その後、掲示板で討論をし合っていたメンバーに囲まれ
売り言葉に買い言葉 約10年ほど、運営の手伝いに
東京通いをするハメに・・・orz
まだ、当時は、サークル活動というものは、複数のメンバーで
運営することが多く、結局のところ、イベント支援の人柱を
立てた団体に対して、出展優遇する(これは、現在も変わりが
ないように思いますが)という地域ローカルルールがあり
そのおかけで、なんとか、年2回のサークル出展が再び出来る
ようになった反面、運営の手伝いをするために、同じジャンルの
他のサークルさん達とアフターコミケでの交流というものが出来
なくなって、結局サークル活動自身を止める憂き目に陥ったのは
今から考えたら笑い話なのかもしれません。
その後、いろいろな形で、米澤氏と顔を合わせる機会がありましたが
スタッフ関係者内々で開かれた大田区の最初の会場取り壊し直前での
内輪イベントに参加したとき、友人のカダフィー企画のコミケに関る
あの怪しいパロディ同人誌を直接手渡したところ、非常にお気に入りに
なり、イベントのたびに、こっそり総本部を抜け出して、そこの
ブースにちょこんと座って、評論家・米澤氏のコスプレをしていた
との噂も(周りも心得ていて、居ても知らない振りしていたし)
有明に移ってからは、忙しいため、そんなことも出来なくて、よく
西4の防災本部に、逃げてきて(私はいないぞ)モードを演じていた
のも懐かしい思い出かもしれません。
地元で開かれた日本SF大会では、ゲストで参加され、コミケの場
とは違った楽しそうな一面も見ることがありました。
30周年のお誕生日会のときは、B−マニアックスのブースに
ちょこんと座り、はにかんだ姿を写真を撮らせていただいたのが
私は最後の姿になりました。
この初夏・GWでは、コミティア80にて、追悼パネル
ディスカッションが行われるとの話ですが・・・
興味がある反面、なんか過ぎし日を再び思い返すのも
悲しくもあり・・・
ぼんやりと、束縛から逃れた故人は、それを見て、どんな
風に笑うのだろうと感じる次第です。
【関連情報】
○ブック批評:売れるマンガ、記憶に残るマンガ 米沢嘉博
【毎日・まんたんWeb】
○【訃報】コミックマーケット元代表 米沢氏 急逝
【06/10/02】
○2004年第43回日本SF大会 速報レポート
企画・左側写真のパネラーの1人として参加する故米澤代表(中央)